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『般若心経』について13

来源:伴沃教育
はんにゃしんぎょう

『般若心経』について(最終回)

どくじゅ

野口圭也(種智院大学客員教授)

Ⅴ.『般若心経』の読誦と写経

1.大乗仏教経典を読誦し、写経する功徳 経典読誦・書写の功徳は、『般若心経』に限らず、大乗経典において繰り返し強調されています。

さらにまた、カウシカよ、良家の男子にせよ女子にせよ、この知恵の完成を書きしるして、

みずからも唱え、前の(菩薩を励ます人と同じ)ように、他人のためにも書きしるして与えるとしよう。彼は、カウシカよ、前の(無数の有情を禅や神通に定着させる)良家の男子や女子よりも、より多くの福徳をやすやすと得るであろう。さらにまた、カウシカよ、良家の男子や女子が、意味に通暁してこの知恵の完成を唱え、前の(人と同じ)ように、他人のためにも書きしるして与え、その意味や文字とともに説明し、解釈してやるならば、カウシカよ、その良家の男子や女子は、より多くの福徳をやすやすと得るであろう。

梶山雄一訳『八千頌般若経』,『大乗仏典2 八千頌般若経Ⅰ』中央公論社, 1974, repr.1980, p.148.

さて、スブーティよ、女子にせよ、男子にせよ、朝のあいだにガンガー河の砂の数に等しい

(自己の)身体を喜捨し、同様に、昼間にもガンガー河の砂の数に等しい身体を喜捨し、夕刻にもガンガー河の砂の数に等しい身体を喜捨するとしよう。このようにして、百・千のコーティ・ニユタという多くの劫のあいだ、身体を喜捨しつづけるとしよう。他方、この法門を聞いて、(それを)謗らないものがいるとしよう。(両者のうちで)後者こそが、そのことによって、より多くのはかりしれない無数の功徳を集積するであろう。まして(この法門を)書写して把握し、記憶し、読誦し、理解して、さらに他の人々にくわしく説明するものはいうまでもない。 長尾雅人訳『金剛般若経』『大乗仏典1 般若部経典』,中央公論社, 1973, repr.1980, p.40. だれかある良家の息子たちにせよ娘たちにせよ、この法門からわずか一詩頌でも受持し、(そ

れを)読誦し、説明し、体得し、書写し、書写して記憶し、ときおり注意深く吟味するとしよう。そして、その(書写された)書物に対して、如来に対するような敬意を起こし、師に対するような敬意をもって恭敬し、尊重し、尊敬し、供養するとしよう。さらに、花、薫香、香水、華鬘、塗香、粉香、衣、傘、旗、幢、音楽などをもって、また敬礼や合掌によって、その書物を供養するとしよう。薬王よ、この法門からわずか一詩頌でも受持するなら、あるいは(この法門を)随喜するならば、薬王よ、彼らはみな、この上ない正しい菩提をさとるであろう、と私は予言するのである。

松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経』「法師品」『大乗仏典5 法華経Ⅱ』中央公論社, 1976, repr.1984, pp.8-9.

これらの引用に見られる通り、大乗仏教においては、経典の内容を説いて他の人々に伝えること、あるいはそれを書写して、次の世代へと伝えてゆくことが、極めて重要な実践とされていました。しかもこの実践は、出家・在家を問わず行うことが可能でした。それまでの仏教(いわゆる小乗仏教)が「自分で学び、自分独りで覚りに近づいて行く仏教」という性格が強かったのに対し、「すべての人々と共に覚りに向かう、他の人に教える仏教」としての大乗仏教の特色を反映しています。

2.『般若心経』の読誦

これまで読誦されてきた多くの経典の中でも、『般若心経』の読誦は格別の意味をもっています。その背景には『般若心経』の呪文的性格があると思います。『般若心経』の読誦の中で、私にとって格別の印象と感慨があるのは、平成5年3月1日に日本武道館で開催されたイベント「千僧音曼荼羅」での、一千人の豊山派僧侶による『般若心経』の唱和です。一千人の声は、ジョイントしていた楽器の音を圧倒して武道館に響きわたりました。ビデオやDVDを見ても、その時の空気の振動を感じることはできません。この催しに、当時小学校3年生で参加していた息子が、翌日の朝、「お父さん、夕べはすごかったね!」と言った言葉は忘れられません。

3.『般若心経』の書写

『般若心経』は日本において、書写経典として特別の人気がありました。殊に、書写することによって未来に教えを伝えていくことよりもむしろ、現在ただ今の状況に対する様々な祈願を込めて『般若心経』の写経がなされてきたのでした。写経を神社に奉納する実例もありました。例えば、鎌倉幕府第二代将軍であった源頼家が、暗殺される前年に病気平癒を祈願して書写した『般若心経』を、三嶋大社に奉納しています。これは明らかに『般若心経』の写経(これ自体は物体です)を、祈願の成就のために日本の神に捧げる呪文、または供物とみなしていたことになります。

鎌倉時代には、「九重守(ここのえのまもり)」という、一種のお守り札として印刷された『般若心経』があります。様々な神仏の尊像や経典と併せて、『般若心経』が印刷されています。これもまた、印刷された『般若心経』という物体を、特別な効力を持つ、一種の呪具とみなしていたことを伺わせるものです。

『般若心経』の写経の歴史は非常に古いのですが、特に弘仁9年(818)、疫病流行に際して、時の帝であった嵯峨天皇が、空海の薦めによって病魔退散を祈願して『般若心経』を写経したことは有名です。この時は空海も、嵯峨帝によって建立された嵯峨離宮において密教修法を行っています。嵯峨離宮は貞観18年(876)に大覚寺となり、以後、時に応じて歴代の天皇が書写した『般若心経』が大覚寺に奉納されるようになりました。嵯峨天皇を始め、後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格天皇による、これらの宸筆写経は、現在は大覚寺内の勅封般若心経殿に納められています。 『般若心経』を写経する時には、いくつかの文字で独特の字体を用いることがあります。例えば、無→无などです。この字体による写経の代表に「隅寺心経」と呼ばれるものがあります。隅寺とは、奈良の海龍王寺の別名です。光明皇后によって創建されたお寺ですが、皇后の住まいの東北隅にあることから「隅寺」と呼ばれていました。天平時代に、聖武天皇と光明皇后の一年間の平安を祈って、写経生によってこのお寺で書写されたのが、「隅寺心経」と呼ばれる一群の『般若心経』の写経です。極めて端正な文字で記され、今日でも『般若心経』写経のお手本とされています。 4.「絵心経」について

『般若心経』のヴァージョンの一つに、「絵心経」という、絵によって『般若心経』の音を表したものがあります。これは、文字を読めない人が多かった時代に、身近なものの絵によって、『般若心経』の読みを覚えてもらうために、文字の替わりに絵で記した経本でした。意味はわからなくても、とにかく『般若心経』を声に出して読みたい、という人々の願いに応えるために作られたのでしょう。 例えば、「摩訶般若波羅蜜多心経」という題名は、逆さになったご飯を炊くためのお釜の絵(「かま」の逆さまで「まか」)、般若のお面で「はんにゃ」、腹部の絵で「はら」、雨が降ってきたときに被る箕で「み」、田んぼの絵で「た」、神社にある神鏡の絵で「しんきょう」と読ませます。 おわりに

昨年から始めた「『般若心経』について」も、毎月一回ずつの更新を一年続けて、どうにか最終回にたどりつくことができました。この間、原稿の提出が遅くれて、金剛院様に大変ご迷惑をお掛けしたこともありました。お読み頂いた皆さんによって、この連載が『般若心経』の思想と文化を理解するための一助となれば、誠に幸甚です。

一年にわたって述べてきたことは、私自身の現時点での『般若心経』に対する解釈です。『般若心経』の解釈はひとによってまちまちですが、恐らく絶対の正解というものはありません。それがまた、『般若心経』の魅力でもあると思います。『般若心経』は仏教の教義を説く経典ですから、書かれている内容を理解しようと努めることが重要であるのは言うまでもありません。しかしそれと同時に、あるいはそれ以上に重要であるのは、『般若心経』を皆さんが自分で読誦したり、書写したりすることによって、『般若心経』を生み出し、今日までの長い年月にわたって伝えてきた、多くの先人たちの意図に触れることではないかと思います。

テキストを読んで、いかに新たな解釈を考え出したとしても、その人が一度も『般若心経』を唱えることも書写することも無いのならば、経典として信仰されてきた、宗教としての『般若心経』を理解することにはならないでしょう。

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